子どもは「できる」存在

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Love公園ライフ。
息子と公園にいると、色んな子育て事情が見えたりします。

Sakutoと砂場で遊んでいると、2歳の男の子と5歳の女の子を連れたおばあちゃん参上。

滑り台の階段を登る姉弟に
「ほらほら、危ないわよ。手につかまって。」と、優しいおばあちゃん。

・ー・ー・ー・ー

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お気に入りの「赤いブーブー」。この1分後にトンネル崩落によって埋まる。

 

 

 

砂場にやってきたのでご挨拶。
近所に住むおばあちゃんで、孫の面倒を見ているのだとか。

 

おばあちゃん「ほらほら、そのシャベルはその子のだから使わないの」
R2「ぼくらがいる間は使っていいですよ。息子が使いたいときは言うから」

おばあちゃん「ほらほら、けいちゃん(男の子)。そっち行ったらお山こわしちゃうでしょ。」
R2「いや、くずしてもいいですよ。また作りますから」

おばあちゃん「ほらほら、もうシャベル返しなさい。もうお帰りになるって」
R2「・・・いや。まだ帰らないです・・・。」

 

と、不思議なやりとりをしました。
きっと、こちらに気を使ってくださっているんだろうなぁ。

 

どんぐりを取りに行きたい姉弟に対して
「ほら、そっちは登れないわよ。こっちから回っていきなさい」

とか、

砂場で山を作っている二人に、
「あっちの山のほうが大きいわよ。」とか。

言葉の節々に、

・あなたにはまだできない
・あなたには登れない
・あなたにはまだ早い
・あなたがやると失敗する

が見え隠れ。

もっと、子どもの遊びを一緒に面白がりたいなぁ。
「あなたならできる」と信じて見守りたいなぁ。

・ー・ー・ー・ー

しばらくすると、雨が降ってきたので、

おばあちゃん「ほら、雨が降ってきたわ。早く帰りましょう!ほら、早く!早く!」

遊びを終わらせて、子どもたちを説得して家に帰るのに、雨は都合がいいんだなぁ☆

 

人の子、ウチの子。

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空いている日は、なるべく息子(もうすぐ2歳)を連れて近くの公園を開拓。

息子くんは、ついつい家の中での遊びが多くなるのと、大人と遊ぶ時間が長くなるので、公園で近い年齢の子と遊ぶのを大切にしています。
そして僕の性格上、色んな親子に声かける(笑

公園で遊んでいると、親同士の「子どもの遊びを見守る感覚」の違いに多々遭遇。

 

先日出会ったお母さん(with メガネ)は、3人の子どもを連れて公園で遊んでいました。
そのメガネ母さんは、一番下の女の子(1歳半くらい)と砂場遊んでいて、上のお兄ちゃん二人(5-6歳くらいの年子)は、滑り台をヘッドスライディングで激しく滑っていました。

メガネ母さん
「こら!◯◯!!危ないからそんなとこつかむんじゃないのっ!」
「そんなすべりかたするんじゃありません!」

と、結構厳しめ。

そんなメガネ母さんが、砂場の横のクライミングホールドのついた斜面を登ろうとしているSakutoに気がついて声をかけてきました。

メガネ母さん
「あら〜かわいいわね〜。ほら〜上手ねぇ〜。はい、ここに足をかけてねぇ〜。あら〜上手よ〜。」と甘々な声。

Sakutoは結局のところ、本当に登りたかったのかわからないけれど、メガネ母さんの誘導のもと10分以上かけて上まで登らされる。登らせていただく。

・ー・ー・ー・ー・ー・

その後、別の滑り台でSakutoが遊んでいたら、先ほどのメガネ母さんと3人の子どもたちもやってきました。

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また、その男の子2人が、お互いを引っ張りあいながら滑り台の階段を登って、競うように滑っているのを見て、

「ダメ!!って言ってるでしょっ!」とメガネ母さん。

Sakutoがのんびりと滑り台の階段を登っていると、その男の子の一人が「おい!赤ちゃんきたぞ。早く行け!」と弟に指示をして、先に登ってSakutoに滑らせないようにしました。
Sakutoは、そういう意地悪をまだよくわかっていないので、ポカーンとしているだけだったけど。

「赤ちゃんはダメだよー」とかなんとか、男の子がSakutoに言っているのを聞いて、

メガネ母さん「ダメって言わないのっ!!」とまた怒る・・・。

・ー・ー・ー・ー

「ダメ」と言って育てれば、「ダメ」という子になる。
親の口癖は、そのまま子どもが鏡となる。

ついつい「ウチの子」には厳しく、「人の子」には甘くしてしまうこと。
ウチの子は、愚息、ダメ息子、問題児etc…そんなことは言わずに、愛のある言葉をかけたい。

近所の子にも、自分の子にも分け隔てなく、愛情を持って関わりたいもんです。

 

支援の感覚

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息子Sakutoが1歳1カ月のこと。

「初めの一歩」はすでに見ていたものの、公園でいきなり7歩歩き、父(とと)びっくり。

と、その帰り道に滑り台に興味深々。
抱っこを下ろすと、一人でハイハイしながら滑り台へ。

下から逆登りをしようとし始める。

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靴下が滑るので、脱がしてみる。

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すると、まあなんということでしょう!!

右側の縁を持って、登り始めるではないですか!

興奮する父。
登る子。

・・・

さらに登る子。
わくわくしながら写真を撮る父。↑上の写真がそれ。

・・・

だんだん焦る父。

・・・

落ちてもよいように、下に手を構えておく父。

・・・

ぐんぐん登る子。
手が届かない高さになって、慌ててリュックと抱っこひもを下ろす父。

・・・

ずり落ちるのを想定して下から追いかけて登るか、登りすぎて向こう側に落ちるときのために階段側から急いで登って上で待つか悩み、さらに焦る父。ドキドキ。

・・・

階段から駆け登り、上で両手を広げて待つ父。
笑顔で楽勝で登り切る子。

安心する父。

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自分の立ち位置、手の出し方、焦りやドキドキ感の気持ち。
→もしかしたら落ちるんじゃないかという不安感。
→まだこの子には登れないんじゃないかという疑い?

普段、人のチャレンジを信じて待つべし!とかなんとか言いながら、まんまと我が子の突発的チャレンジを不安な気持ち満載で狼狽えながら関わった自分でした。

自分が同じ立場になって想像できること=経験していること(覚えていること?)には、ある程度の予測を持って見守ることができる。

何が起こるかが想像できないとき、大人として、支援者として、どんなスタンスで関わるか。
「万が一」の事態を想定することは大切。

心のどこかで「できないかもしれない」という疑いを持って見守るのか、「きっとできるはず」と信じて見守るのか?

子どもの行動を心から信じること。

その心の持ちようは、ぼくらの表情や言葉の端々にあらわれて、子どもに伝わるんだよなぁ。

支援の選択肢

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「子どもの支援」をテーマに、ある保育園の研修を担当させていただいたときのこと。

一人の男性保育士が、「木登りで、子どもに『おしり押して!』と言われると悩む」ということを話してくれました。

そこに悩めるって素晴らしいことだと思います。

で、結局のところ、子どもや状況によるので答えはないのだと思いますが、自分の中でどんな選択肢があるのかを考えておくことって大切。

・子どものおしりをしっかり押して登らせて上げる?
・とりあえず木の真下に立って、落下したら受け止めてあげる準備をする?
・「大丈夫。◯◯ならできると思うよ」と勇気づける?
・「両手で押す?それとも片手?それとも小指だけ?」と押す選択肢を渡す?
・「本当に押してほしいの?それとも一人で登りたいけど登れないと思っているの?」と確認をしてみる?
・押もせず、近くにもいかずに見守る?
etcetc…

 

「一人で登らせたい」、「成功体験をさせたい」というのは、大人の願い。

「とりあえず登りたい」、「自分で登れるようになりたい」、子どもはどんな願いを持っているのか?

となると、やっぱりチャレンジャーの目標=「どこまでいきたいか?」「どうやっていきたいか?」を知ることなしに、支援の形を決めるのは難しいと思うわけです。

だから、ついつい「どうしたい?」と聞いてしまいます。

登れないことは失敗ではなく、試行錯誤のプロセスの一部だと考えられる支援者でありたいし、子どもたちにもそう考えられるようになってほしい。

今日は手伝ったから登れた、明日は一人で登れるかもしれない、そんなことが起こるかもしれない。

 

だれのチャレンジ?

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アドベンチャー教育の現場で、参加者同士が「助け合う」場面をたくさん見ます。
人は本能的に他者と協力する感覚を持っているというのは、本当にそうだなぁと思います。

とはいえ、参加者同士が「助け合い過ぎる」場面もたくさん見ます。

たとえば、ハイチャレンジで命綱をつけて高さ10mのクライミングウォールを登るとき。
命綱を持つビレイヤーが、ついつい「登らせてあげたくなる」感覚。

頼まれてもいないのに、「そこ!右足上げて!そうそう!次、左手上のやつ掴めるよ!!」というアドバイス。
もしくは、落ちそうになるクライマーを勝手に命綱を引っ張って持ち上げようとしてみたり。

登らせてあげたい!成功させてあげたい!という一心から。

僕はクライマーではありませんが、ロッククライミングで「ムーブに関することは言わない」というのを聞いた事があります。
ボルダリングは、一人で(みんなでのときもあるけれど)課題解決(謎解き)をしているわけで、「次は右手で掴んで!そのまま左足上げて!」と、謎解きの手がかりの指示を出され過ぎると凹みます。

視覚障害者のクライミングを通したユニバーサルな社会作りに取り組む、「NPO法人モンキーマジック」のクラミングに参加をしたとき、「視覚障害者も改題解決を楽しみたい」という話を聞いて、そりゃそうだ!と思いました。

見えない人に対して、クライミングホールドへの方向、距離、形は伝えても、「どうやって登るか?」は伝えないそうです。

 

というか、「答え」を教えないというのが当たり前の支援でありたい。
むしろ、支援というよりもその人のチャレンジを尊重する人でいたい。

その人のチャレンジしている気持ちに共感していれば、無言で命綱を持っていたっていい。

 

学校の研修プログラムでも、ついつい教師が

「ほら、がんばれ!!登れ〜!!」

「あきらめんな!」

「そう!ロープもって〜!!そこでグッと上げる〜!!そう!!」

と、心の籠った激励、という名の「指示・命令」が飛ぶ場面にたくさん遭遇します。
そんな時は、そんな先生の横にこっそり行って、

「今、だれのチャレンジですか?」と聞いてあげよう。

他者からの視線

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自分がファシリテーターとして集団の前に立つときに、自分の立ち振る舞いや言葉が「相手からどう映っているいるか」ということを気にすることがあると思います。

僕は子どものころから、他人の目が気になる性格でした。
自分の言動は、人から見ておかしく見えていないだろうか?間違っていないだろうか?

そんなことを考えて集団の中で関わっている自分は、どうしても一歩引いた関わりでした。

 

もちろん、まだまだそんなことが気になりますが、この数年で少しずつ手放せている感覚があります。
ファシリテーターとして、一人の人間として。

アドベンチャー教育の研修で、スタート時に子どもたちの前に立って自己紹介をする場面があります。
あれ、緊張してたんですよね。
やっぱり第一印象は大事にしたいと思うと「笑顔でいよう!」みたいなことを考えてみたり。子どもたちにとって好印象でいたい・・・なんて考えていました。

ワークショップ通訳でも、訳の言葉に詰まって参加者と視線が合うと参加者がどう思っているかをつい考えてしまって、次の訳が遅れたりすることがありました。

今年はそんなことがまったくなく、「今ここ」英語を話すメインファシリテーターの言葉に集中できました。結果、英語力は一年前と変わらないけれど、間違いなくパフォーマンスは上がった感覚があります。

それは年齢を重ねたから。
きっとなんとかなるという自信がでてきたから。
ライブ感の中で、臨機応変にことが進む流れに身を任せられるようになったから。

 

“Standing in the Fire”というワークショップで、僕が尊敬しているファシリテーターの一人佐々木薫さんに教わったこと。

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Standing in the Fireのテキスト。おすすめ!

「自分がどう見られているか?」→「この人はどんな人だろう?」と視点を変えてみること。

これは、僕にとってピッタリはまった考え方でした。

自分がどう見られていようとも関係ない。
学ぶのは目の前にいる人であって、ファシリテーターはそれを支援する人。
相手に集中して興味を持って関わると、自分がどう見られているかなんて考えるヒマはない!(笑
体験が持つ力、ロープスコースやアクティビティの力を信じること。
参加者の力、グループの力を信じること。
真摯に、願いを持って関われば、相手との関係性も作れるはず。
それでダメなら、今はそのタイミングではなかったと手放すこと。

利他的に考えていくと、自分がどう見られているかということは、どうもそんなに大切ではないんだろうな。

自然な姿で、ありのままの自分で、いつでもありたいものです。
自分の中の 思い- 考え – 行動を一致させようと努めること。
弱い自分も強い自分も、そのままでOKと思えること。
そういふものにわたしはなりたい☆

 

 

 

自分の考えを述べるということ

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久しぶりのブログです。
今日「子どもと保育実践研究会」の夏季全国大会に参加をして、ふとブログでのアウトプットをしたくなりました。

もともと僕は誰かに自分の考えを伝えるということが苦手でした。

たとえ自分にとって素晴らしい情報も、相手が必要としていなければそれは「余計なお世話」になりかねない。
健康情報や、ライフスタイルなど、自分が信じていて、心地よく過ごせていることで、メディアの情報が「嘘」かもしれないこと・・・そんなことを相手に薦めることにも抵抗があります。

それは、宗教でも、価値観でも、真実でも、幸せのツボでも、スマホのキャリア選びでも。
よかれと思って人に薦めても、選ぶのはその人。

Twitterで、とあるイラストレーターの方が「アドバイス罪」なんていう面白いことを言っていたけれど、まさにそんな感じ。
求めてもいないアドバイスって、世の中にはたくさんあって。
「絶対◯◯がいいよー!」って、結構無責任。
選ぶのは本人なんです。

ファシリテーターという役割も、「アドバイス」とか「教える」ということに価値を見出せない要因の一つ。
参加者・学習者が主体で学んでほしい=ファシリテーターはきかっけを作る黒子のような存在でありたい、なんていうことを信じていると、コミュニケーションやチーム作りについて、何かを直接的に語ることを自然と避けてしまいます。
体験の力を信じて、その経験の中で学んでほしい。もしくは、集団の中での気づきの共有から学び合ってほしい。その時間、その体験の中でだれも気が付かないならば、それはその個人やグループにとって「タイミング」ではなかったということだと思っています。

とはいえ、もちろん自分が伝えたいことを伝える方法はたくさんあって、

「ちょうど◯◯で読んだんだけど・・・」(本やニュースを介して伝える)
「◯◯という人が、こんなことを言いました」(偉人や知人の言葉として伝える)
「どう思う?それってこういうこと?」(問いかけ、質問で伝える)
「昔むかしあるところに・・・」(物語で伝える)
etc…

なんていうことを繰り返していると、ふと自分の考えや価値観を自分の言葉で語る機会が少ないのかもしれないなぁと。

3年前、コロラドのAssociation for Experiential Education に参加をしたときに、Prescott College教授に飲みながら教えてもらったこと。
https://fryoji55.wordpress.com/2014/01/28/aee-41st-conference-3/

Knowing < Understanding < Thinking
自分で考えることの大切さを、ふと忘れていました。

それに自分が感じていることFeelingも加えたい。

今は、ありがたいことに多様な教育の現場で、多様な人たちと仕事をする機会に恵まれています。
この夏の1ヶ月だけでも、自分の中での気づきや学びはたくさんありました。

ノートに書いたり、PCでメモしたりしていることも、忘れっぽい性格のためすぐに忘れてしまう。
風化する前に、人に伝えるように文章にしてみたい。

自分が見聞きした情報や調べた情報を書くのでなく、人に「これがいいよ」と伝えるのでもなく、ただただ自分が考えていること、感じていることを文章にしてみたい。

ということで、気まぐれにブログ再開です☆